水中ピエロさんの日常は?

JOCV時代同期だった不破央さん。
現在は水中ピエロのお仕事をされています。


味のあるおもしろいほのぼのマンガをブログで書かれていますが、久しぶりに拝見して大笑いしたりジンときました(^_^)


















 

at 11:00, くさのね, つれづれ

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深いことを面白く・・

先月、敬愛する奈良のご夫婦のお家に遊びにいかせて頂きました。



学びの仲間であり、私の興味関心分野をdeepに掘り下げ腑に落としておられる方々なので、めちゃくちゃおもしろい話は尽きることなく、気が付けば深夜に及んでおりました。


このときの余韻は、今でも私の内側で響き続けています・・
いくつかの印象深いことの中で、臨床哲学者の鷲田清一さんの言葉が残っています。


あまりに良かったので、関わりのあるいくつかの集まりでご紹介させていただきました。
人と関わるしごとをしている人には、なんらか感じられるものがあるのではと思います。
前回の投稿に引き続きご紹介させていただきます。







【「隔たり」は増幅するばかり】   哲学者・元大阪大学総長 鷲田清一さん

哲学者の鷲田清一さんは、いま、大きな〈隔たり〉が広がっていると感じている。被災した人たちと被災しなかった人たちの間で、さらに、被災した人たちどうしの間で。当事者に寄り添い、当事者の声から物事の本質をつかもうとする「臨床哲学」を提唱する鷲田さんが考える、わたしたちのこれまでとこれから。 

■被災地そっちのけでなされた永田町の泥仕合 
 〈隔たり〉ということを、いまもって強く意識させられたままだ。被災した地域の人びとと被災しなかったわたしたちとのあいだの〈隔たり〉。 

 地震が起こった直後、被災地から遠く離れたわたしたちは、テレビの伝える映像に息を呑(の)むばかりであった。映像に釘づけになる日を幾日か過ごし、十六年前関西で被災した者として、すぐに何ができるだろうかと思った。義援金を送ること、被災地に食料や物資がしっかり回るようとりあえず消費を控えること……。 

 被災地に声を届けなければと思っても、どんな言葉にもまとまらなかった。外からの声は、ときに暴言になる。そのことをいやというほど知っていたからである。神戸のとき、報道陣のヘリコプターに、建物の下敷きになっている人の声が聞こえないと憤った人もいたが、だれかがずっと見守ってくれていると感じる人もいた。おなじ一つの出来事が、被災のありようによって正にも負にもなった。そのことが身に沁(し)みていた。だからこのたびも、みな言葉遣いに慎重になり、口数もつい減った。 

 一方、仙台市街に住む友人によれば、地震後しばらく、倒壊はまぬがれたものの引き続く強い余震に、深夜ひとりで部屋にいるのが怖くて、みなぞろぞろ街路に出てきたらしい。うずくまっている人がいれば、だれかれなく「大丈夫ですか」と声をかけあった。背負ってきたもの、抱え込んできたものがみなチャラになったかのような負の解放性、それを友人は「まちが突然、開いた」と表現した。

が、日を追うにつれて、この対比は逆転してゆく。 

 長く住みなれた家では身体はまわりの空間に溶けでているが、避難所では身体は皮膚の内側に閉じこもる。他人の気配に緊張は解けず、何かがちょこっと身体にふれるだけで、身は竦(すく)み、凍(い)てついてしまう。皮膚はずるむけのそれのように傷つきやすく、それにつれて気持ちもささくれだってくる。だからつい「事件」も起こる。罵(ののし)りあいや怒号、そして慟哭(どうこく)が、あちこちで噴きだす。身をほどく空間もなく、たがいに擦り傷をこすりつけあうばかりのそうした生活は、耐えうるものではない。 

 当初、身を襲っているものの姿さえ捉えられず、茫然(ぼうぜん)とするばかりだった被災者の心根に、やがてじわりじわり、喪(うしな)ったものの大きさが沁みてくる。家族や友人、あるいは家、あるいは職という、これまでみずからの生存の根であったものを失い、どう自分を立てなおすべきか途方に暮れるうち、だんだん言葉少なになってゆく。自分だけが生き残ったことに責めを感じ、押し黙ってしまう人もいよう。からだは忘れたがっているのに、頭のほうは忘れてはいけないと言う、そんな二つの声に引き裂かれている人もいよう。 

 やっと水道が通ったばかりの地域もあれば、普段どおりの生活に戻った地域もある。「元」に戻ることを断念した人たちもいる。そんなかれらにとって、一人ひとりの記憶が深く刻まれた柱や瓦、日用品の数々がひとまとめに「がれき」と呼ばれるのは、耐えがたいことだろう。そして、一人、一人と避難所を去ってゆくなかで、取り残されたという感覚に押しつぶされ、崩れてゆく人も、悲しいけれどきっと出てくるだろう。〈隔たり〉は被災地でもさまざまなかたちで増幅するばかりだ

逆に、被災地から離れたところからは、妙にはしゃいだ声が聞こえはじめている。「エコタウン」をはじめとする東北の復興構想を、メニュー片手に得々と語る人たち。いつじぶんの出番が来るかと固唾(かたず)を呑んで待っている都市プランナーたち。政府の失政を声高に論評する人たち。あるいは、「がんばろう」「お見舞い申し上げます」という、もはや惰性と化した物言い。ここに人は、被災した人たち一人ひとりに届けられることのない「空語」をしか見ないであろう。そして、被災地の救済そっちのけでなされた、首相退陣をめぐる永田町内の泥仕合。 

 被災した人、被災しなかった人の〈隔たり〉はここに極まれりと、あきれるというよりはむしろ絶望的な思いでそれを受けとめた人も、もちろん数多くいる。見苦しいというよりも酷薄な国会の混乱を前にして、言葉を荒らげることなく、静かに深く「憂国の情」を抱く人もいる。 

 いずれにせよ、〈隔たり〉はなくなるどころか、いっそう大きくなるばかりだ。被災地のなかでも、被災地とその外とのあいだでも。 

■想像力を鍛えておく。いつか耳を傾けられるように 
 被災地ではいま、多くの人が〈語りなおし〉を迫られている。自分という存在、自分たちという存在の、語りなおしである。 

 アイデンティティー(自分がだれであるかの根拠となるもの)とは「自分が自分自身に語って聞かせる物語」だと言った人がいる。R・D・レインという精神分析医だ。自分はだれの子か? 自分は男女いずれの性に属しているか? 自分は何をするためにここにいるのか? こういう問いが、人それぞれのアイデンティティーの核にある。これらの一つでも答えが不明になったとき、わたしたちの存在は大きく揺らいでしまう。 

 子に先立たれた人、回復不能な重い病に侵された人、事業に失敗した人、職を失った人……。かれらがそうした理不尽な事実、納得しがたい事実をまぎれもないこととして受け容(い)れるためには、自分をこれまで編んできた物語を別なかたちで語りなおさなければならない。人生においては、そういう語りなおしが幾度も強いられる。そこでは過去の記憶ですら、語りなおされざるをえない。その意味で、これまでのわたしから別のわたしへの移行は、文字どおり命懸けである。このたびの震災で、親や子をなくし、家や職を失った人びとは、こうした語りのゼロ点に、否応(いやおう)もなく差し戻された。 

 こうした語りなおしのプロセスは、もちろん人それぞれに異なっている。そしてその物語は、その人みずからが語りきらなければならない。戦後六十数年経っても、戦争で受けた傷、大切なだれかに死なれた事実をまだ受け容れられていない人がいるように、語りなおしのプロセスは、とてつもなく長いものになるかもしれない。 

 語りなおしは苦しいプロセスである。そもそも人はほんとうに苦しいときは押し黙る。記憶を反芻(はんすう)することで、傷にさらに塩をまぶすようなことはしたくないからだ。あの人が逝って自分が生き残ったのはなぜか、そういう問いにはたぶん答えがないと知っているから、つい問いを抑え込んでしまう。だれかの前でようやっと口を開いても、体験していない人に言ってもわかるはずがないと口ごもってしまうし、こんな言葉でちゃんと伝わっているのだろうかと、一語一語、感触を確かめながらしか話せないから、語りは往々にして途切れがちになる……。 

 語りなおすというのは、自分の苦しみへの関係を変えようとすることだ。だから当事者みずからが語りきらねばならない。が、これはひどく苦しい過程なので、できればよき聞き役が要る。マラソンの伴走者のような。 
 けれども、語りなおしは沈黙をはさんで訥々(とつとつ)としかなされないために、聴く者はひたすら待つということに耐えられず、つい言葉を迎えにゆく。「あなたが言いたいのはこういうことじゃないの?」と。言葉を呑み込みかけているときに、すらすらとした言葉を向けられれば、だれしもそれに飛びついてしまう。他人がかわりに編むその物語が一条の光のように感じられてそれに乗る。自分でとぎれとぎれに言葉を紡ぎだす苦しい時をまたぎ越して。こうして、みずから語りきるはずのそのプロセスが横取りされてしまう。言葉がこぼれ落ちるのを待ち、しかと受け取るはずの者の、その前のめりの聴き方が、やっと出かけた言葉を逸(そ)らせてしまうのだ。聴くというのは、思うほどたやすいことではない。 

 いや、そもそもわたしたちはほんとうにしんどいときには、他人に言葉を預けないものだ。だからいきなり「さあ、聴かせてください」と言う人には口を開かない。黙り込んでいた子どもが、母親が炊事にとりかかると逆にぶつくさ語りはじめるように、言葉を待たずにただ横にいるだけの人の前でこそひとは口を開く。そういうかかわりをまずはもちうることが大事である。その意味では、聴くことよりも、傍らにいつづけることのほうが大事だといえる。 

 しかし、それは被災地から隔たったところで暮らしている人にできることではない。ちょいとボランティアに行ったからといってできることでもない。

 いま「復興」を外から語る声は、濁流のなかでおぼれかけている人に橋の上からかける声のように響く。詩人の和合亮一さんがある対談のなかで、「自分は川の中で一緒におぼれないと何もいえない」というジャーナリストの声を引き、それこそ「想像力」であり、「川で一緒におぼれるのが詩なんです」と語っていた。濁流に入れなくても、濁流に入り込む想像力はもちうる。その想像力を鍛えておくことが、いまは必要だ。東北の友人に次に会うときのために。いつか東北を旅するときに知りあった人の語りにじっと耳を傾けられるように。

 神戸では、このたびの震災の映像を見て、激しいフラッシュバックに襲われた人もいる。幼児のときに被災した若者は、あのときは意味がわからなかったが、長じていま、過去にはじめて出会うかのような映像にふれ、より深い傷を負いなおしているという。聴きとどけなければならない声は、そんなところにもある。 

 関西には独特な語りのくせがある。いかに悲惨なことでも「泣き笑い」で語り、相手を面白がらせるというサービスである。家が倒壊したことを、ある初老の男はこう表現した。「女房は二階で寝ていたはずやのに、ふと見たら横におるんですわ」。この語りが聴く者の緊張をほどいた。東北にも別の語りの伝統がある。遠野の民話、宮沢賢治の童話、「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」という井上ひさしの語り、さらにケセン語に訳された福音書……。その語りの伝統が、このたびの苦難の語りのなかで活(い)きることを祈っている。 

 わしだ・きよかず 49年京都生まれ。関西大や阪大の教授などをへて07年から11年8月まで阪大総長。現大谷大学教授。専門は臨床哲学、倫理学。著書に「『聴く』ことの力」「『待つ』ということ」など。

*2011.6.11朝日新聞朝刊より

at 10:00, くさのね, つれづれ

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ありえない討論会を妄想してみる

ありえないシチュエーションですが、原発問題を話し合う討論会を、ガチ当事者どうしで同じ会場で
車座になってやろうという状況を想像してみてください。




東京電力幹部
経産省担当官僚
御用学者(と言われる方々)
推進してきた政治家、知事
福島第一原発のスタッフ

現首相
歴代首相
例えばアメリカ、ドイツ、フランス、スウェーデンあたりの首相、国民

ウラン採掘現場労働者
ウラン採掘現場付近の住民

大手企業の経営者
中小企業の経営者
経済学者

飯舘村の農家
福島の漁師
南相馬の妊産婦
広島長崎の被爆者
反対運動のリーダー
自然エネルギー推進派
反対派の学者
チェルノブイリ近郊出身の身体的ハンデを持った青年
・・・・・


あくまでニュートラルに事を進めるべきこの討論会のファシリテーター(進行役)は、さぞ大変だろうと想像します(^^;)



一定の厳格な発言、傾聴、守秘義務等のルールを設けないと成立しないでしょうね。
(そもそも招待を受けるかなんて現実的話はこの際抜きにして)




このような場が成立する、させるとしたら何が一番必要でしょうか。




いろんな視点、考え方があろうかと思いますが、まず基本的に必要な要素は・・


「どんな立場の参加者とも冷静に座っていられる」

という当たり前の参加条件がまず必須になってきますね。


そのためには、とりあえず「善悪の判断を抜きにして相手の居場所を尊重できる」
というスタンスが各参加者に求められるということになってきます。
それぞれの参加者が「安全、安心」を感じていられなければ成立しないですからね。

でも、これってなにげに簡単ではありませんよね。
「そんなの無理だよぉ〜」という方も当然おられるでしょう。


でもそれでは、「場」が成立しないんですね。


ある種、観念的と思われるかもしれませんが、原発問題のいきつくポイントは、この辺にあるのではと個人的には感じています。



ここまで、冷静に受け止められれば、推進派といわれる人々の目を見ながら深呼吸もできるようになってきますし、
彼らの背後に、その家族も想像できるようになってきたりもするでしょう。
(会場内に、各参加者の家族もいるといいですね。子どもは防音ルームで保育してもらって)



以下のブログを読んでいて、こんなことを妄想してしまいました(^^;)





無知、思考停止への反省も含め、これまでの原発から享受してきた恩恵への感謝と推進派の人々の居場所もハートに設けながら、
どうしたら冷静にコミュニケーションしうるのか考え続けていきたいと思います。





PS.ちなみに、上記の参加者やファシリテーターの「在り方」は治療家の在り方にも通じるんですよねー。


at 17:17, くさのね, つれづれ

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「Silence of love」

ある方のご紹介で知ったタイ生命保険のCM動画です。
アジアの広告コンテストでもグランプリを受賞していたりするシリーズのようです。


 

コチラから → 動画




ありがちな設定ですが・・

at 20:38, くさのね, つれづれ

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スウェーデンとフィンランドに学ぶ

エネルギー問題に関して、どのような未来を選択すべきなのかを考える上で、
参考になる2つの映画を観てきました。


オススメです。









国民投票により既に1980年に脱原発を選び、自由化された電力会社を選べる国スウェーデン

世界初の高レベル放射性廃棄物処分場を岩盤地下深くに建設中のフィンランド






日本より先に、「持続可能な社会」を考え続け、問題を先送りにしない2つの国の今を知ることができますよ。 

at 17:36, くさのね, つれづれ

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吉野弘さんの詩

学びの仲間Yさんに素敵な詩を教えてもらいました。









「祝婚歌」

 二人が睦まじくいるためには

愚かでいるほうがいい

立派過ぎないほうがいい

立派過ぎることは

長持ちしないことだと

気づいているほうがいい



完璧をめざさないほうがいい

完璧なんて不自然なことだと

うそぶいているほうがいい



二人のうち どちらかが

ふざけているほうがいい

ずっこけているほうがいい

互いに非難することがあっても

非難できる資格が自分にあったかどうか

あとで疑わしくなるほうがいい



正しいことを言うときは

少しひかえめにするほうがいい

正しいことを言うときは

相手を傷つけやすいものだと

気づいているほうがいい



立派でありたいとか

正しくありたいとかいう

無理な緊張には色目を使わず

ゆったりゆたかに

光を浴びているほうがいい












「生命は」


生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい


花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする


生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ


世界は多分
他者の総和


しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄

ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄

そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?


花が咲いている
すぐ近くまで
虻(あぶ)の姿をした他者が
光をまとって飛んできている


私も  あるとき
誰かのための虻(あぶ)だったろう


あなたも  あるとき
私のための風だったかもしれない









◆このような掲載には著作権が絡むようですが、以下のサイトのように吉野さんの寛容なご姿勢により
著作権フリーなのだそうです。この場をお借りして感謝申し上げます。
http://www.1101.com/bookstore/BOOK_syuku_051211.html
http://www5.plala.or.jp/kappa_zaru/shukukonka.html


数日前、ノーベル化学賞を受賞された根岸さんと鈴木さんも特許をあえて取られずにいらっしゃるとか。



貴重なギフトを公にシェアくださるスタンスに頭が下がります。

at 18:22, くさのね, つれづれ

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たし算と引き算

鍼灸師になるきっかけを頂いた友人のブログ記事 にもありましたが、



「とにかく栄養とらなきゃ…」

「無理してでも食べなきゃ…」



的な(笑)とりあえず「足しておくことは善」という感じの発想は、結構頻繁に出会いますよね。

もちろん、必ずしも悪いことではなく、育ってきた世代や環境、文脈によっては、そのスタンスが
イノチを繋いでくる場合もあった訳です。




ただそういうことを除けば、ものごとを究めていくプロセスにおいては「引き算」の方が
本質に近づくということは基本的にあったりしますよね。



健康のために数種類のサプリメント補給。
(お金をかけず、時々断食した方がよっぽど良かったり・・)

食欲がなくても無理に食べておく。
(風邪のひき初めなど、無理に食べずに休んでいた方が「消化活動」に治癒力がそがれなくて
良かったり・・)

スパイスたっぷり何種類も使ったカレー。
(美味しいインドカレーは、オドロクほど少ない種類を少量使ってできたりする・・)

武術の奥義。
(チカラを入れず、たるんでいる意味ではなく脱力、むしろ相手のチカラをうまく使う・・)

鍼灸治療のツボ。
(名人ほど最小限のツボへの短時間の治療で最大の効果をあげたりする・・)

などなど・・・
芸術関係なども得てしてそうですよね。




PS.現在96歳になる祖母は、むかしよく「栄養だんご」なるおやつをよく作ってくれました(笑)
ときに、さつまいもやら、かぼちゃやら、ピーナッツやら「その時あるもの」をなんでも小麦粉とともに
練り込んでふかしてくれたものでした。

たいてい美味しくできあがっていたのですが、時々口に入れて、「んっ・・・」(汗)という味の時があり、
「栄養になるからひじきとタマネギもいれておいた…」みたいなこともありました(^^;)


今思えばとてもとてもありがたいことです・・・。




90歳くらいの頃の祖母

at 14:59, くさのね, つれづれ

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