今回ほど投票先の選択に悩む選挙はありません。世の中的にもそのように言われています。
でもこの難しい政治状況が悪いと実は最近思わなくなってきました。
この現状を作っているのは、基本的に私たち有権者の責任だからです。
私個人のもっとも関心の強いイシューは脱原発・エネルギー問題です。
311をきっかけに、わたし自身の無知、マスコミの在り方含め正しい情報を得ることの困難さ、世の中を動かそうとする見えない力学のことがかなりわかってきました。
ただ、脱原発を「唱えること自体に力点を置くこと」には実はあまり関心はありません・・・
というより、一定の価値はありつつそれも何かが違うと感じていました。
もちろん真実を知り続けることや、署名、投票、パブリックコメントするなどの現実的行動はとりながらです。
一番の興味関心は、「2項対立を超える対話の可能性とそれを可能にする個人の意識や在り方」についてです。
このことについて野口嘉則さんがFBページの投稿で以下の例をあげておられ、
とてもわかりやすく共感しましたので以下引用させていただきます:
ケン・ウィルバーが著書『万物の歴史』の中で
次のようなことを述べています。
「地球にとって緊急な問題は、産業化でもなければ、オゾン層破壊、資源枯渇でもない。
これらについてどう取り組むかの相互理解と合意ができていないということこそが問題だ」
地球環境問題をはじめとして、今の社会にはさまざまな問題がありますが、
何よりも問題なのは、
それらの問題について取り組むための相互理解と合意ができていないということだ、
とケン・ウィルバーは述べているわけです。
実際、社会には緊急な問題がいくつもあるのに、なぜ僕たちは、
それらに取り組むための前提となる相互理解と合意に至れていないのでしょうか。
ここで、デヴィッド・ボームが著書『ダイアローグ』の中で述べている言葉を紹介したいと思います。
「コミュニケーションで新しいものが創造されるのは、人々が偏見を持たずに、相手の話に耳を傾けられる場合に限られる」
「人には対話(ダイアローグ)が必要だ。しかし人々が行っているのは、対話ではなく議論だ。自分の意見に固執していては対話ができない。対話では相手を説得することは要求されない」
「対話の目的は議論に勝つことではない。あなたの意見を目の前に掲げて、それをよく見ること。そして、さまざまな人の意見に耳を傾け、それを掲げて、どんな意味なのかをよく見ることだ」
ボームの言う「対話」こそが、
相互理解と合意のカギを握っていると思うのです。
しかし、今の社会では、
どっちが正しいかについて議論を戦わせたり、「○○は間違っている」と相手側を非難したり、
そのような二項対立的な議論はよく見受けられますが、本当の意味での対話はなされていないケースが多いのではないでしょうか。
人はそれぞれ、
違う「ものの見方」をするし、
違う感じ方をするし、
違う価値観を持っています。
つまり、僕たちはそれぞれ、
自分の「ものの見方」で世界を見て、
自分の感性によって世界を感じ、
自分特有の価値観にしたがってものごとを判断します。
そして、おたがいが
「自分の考えこそが正しく、相手の考えは間違っている」
という前提で話し合うなら、どっちが正しいかについての論争になってしまいます。
また、相手側を悪だと決めつけて、「○○は間違っている」と相手を非難するならば、
相手はますます防御的になってしまうので、相互理解の機会は失われてしまいます。
つまり、自分の考えに固執しているかぎり、僕たちは「対話」をすることができないので、
相互理解と合意に至ることもできないわけですね。
自分の意見をしっかりと発言しつつも、それに固執するのではなく、自分と違う意見に耳を傾けていく。
その姿勢で臨むことができれば、対話を重ねていけるし、相互理解と合意も創り出せると思うのです。
ここで、近代哲学の完成者と言われるヘーゲルの考え方を紹介したいと思います。
ヘーゲルは、人間の意識の成長と歴史の発展を、
次のような絶えざる運動として捉えました。
ある考え方(テーゼ)があれば、
必ずそれに対立し矛盾する、反対の考え方(アンチテーゼ)
があり、
この両方の矛盾を統合することで、
より高次の考え方(ジンテーゼ)に至る。
すなわち、
正(テーゼ)→反(アンチテーゼ)→合(ジンテーゼ)という、
矛盾を統合して高次の段階に進むという運動によって、
人間の意識も世界の歴史も進化していく。
とヘーゲルは述べているのです。
ということは、
「自分と逆の意見を持つ相手」というのは、
論破すべき敵ではなく、
より高次のアイデアをともに生み出すパートナー(仲間)
だということになります。
以上引用終了。
原発推進と脱原発。
TPP推進とTPP推進反対。
領土防衛問題への強硬路線とその反対。
いじめ問題におけるスタンス・・などなど。
これらを前にできる最大限のことは、投票などの現実的行動以外に「自分の意識をどう持ちうるか」ということかなと、最近強く感じています。
原子力ムラを前にした「怒り」や、投票を前にした「無力感」に自分自身が振り回されていては、
野口さんがおっしゃるところの「対話」「合意形成」・・自体が成立しないからです。
これは臨床においてプロとして治療効果をあげていくための患者さんとの信頼関係づくりとも共通してきます。
原発問題の本質を押さえる時のポイントとして「・・使用済み燃料、高レベル廃棄物の最終処分がそもそもできるのかどうか。
この点について、今年9月に
学術会議ほどのオーソリティが地層処分、最終処分は日本では極めて難しい・・と既に結論を出している。
この現実を直視するところから全体を見つめ直さざるを得ない・・」
とおっしゃっていました。
つまり推進したい、やめるべきだという議論以前に、この問題の現実的ポイントに関する相互理解と合意を形成するプロセスを国民が共有できない状況自体が、
ケン・ウィルバーが言うような意味で一番の問題なのかなと感じています。
偉そうなことぶちかましてしまいました(笑)
「この総選挙は、実は、政党と政党の戦いではない。政治に無関心にさせられている国民と、その無関心に安住している政治との戦い。
80%以上の有権者が投票所に足を運ぶとき、静かな革命が始まる。」
という田坂さんの言葉に激しく同意しつつ、ちっぽけな草の根の1本として、知り続けること。できることはすること。
また、淡々と楽しく自分のおなかの人と仲良くしていければと感じる今日この頃です。
今月24日には、ガンジー非暴力研究所所長さんでNVC(ノンバイオレントコミュニケーション)を長く生活で実践されている
めずらしく熱く投稿してしまいました(^_^)
これもまたよしということで(笑)